Chapter 2
募る想い
莉子との再会を願う悠真。偶然を装って彼女の前に現れるたび、緊張と喜びで胸がいっぱいになる。些細な会話、ふとした瞬間の笑顔。悠真の莉子への想いは、日ごとに募っていく。しかし、その気持ちをどう伝えればいいのか、彼はまだ知らない。
橘莉子との再会を願う佐倉悠真の心は、まるで春の陽気に誘われて芽吹いたばかりの若葉のように、日ごとに瑞々しさを増していった。あの偶然の出会いから数日が経ったというのに、莉子の笑顔は悠真の胸の奥に鮮やかに焼き付いていた。通学路の交差点、図書館の片隅、いつもと変わらないはずの日常が、彼女の存在によって色鮮やかに塗り替えられていくのを感じていた。
「今日も、会えるかな…」
朝、自宅の窓からぼんやりと外を眺めながら、悠真は小さく呟いた。心臓が微かに高鳴る。それは、期待と、ほんの少しの不安が入り混じった、甘酸っぱい感覚だった。意を決して、いつもより少しだけ遠回りをして、莉子が通うであろう道を選んで歩き出す。偶然を装って彼女の前に現れるたび、悠真は緊張と喜びで胸がいっぱいになった。
「あ、佐倉くん!」
予想通り、莉子は角を曲がったところで悠真の目に飛び込んできた。彼女の弾んだ声に、悠真の顔も思わずほころぶ。
「橘さん、おはよう」 「おはよう!今日も早いね」
屈託のない笑顔。その笑顔に、悠真はいつも眩しさを感じた。
「うん、ちょっと寄り道をしてて」 「そうなんだ。どこかいいところでも見つけたの?」
莉子が興味深そうに顔を覗き込んでくる。悠真は、本当は君に会いたくて、と口にしそうになるのをぐっとこらえた。
「いや、別に…ただ、今日は空が綺麗だなと思って」
そう言って、悠真は空を見上げた。青いキャンバスに、真っ白な雲がゆっくりと流れていく。莉子もつられて空を見上げた。
「ほんとだ。なんか、気持ちいいね」
その横顔を盗み見る。風になびく髪、柔らかな首筋。悠真は、言葉にならない熱が胸に込み上げるのを感じた。
二人の距離は、こうして些細な会話や、ふとした瞬間の笑顔を通して、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていった。学校でばったり会えば、他愛もない話をした。部活の帰り道、偶然同じ方向だとわかれば、一緒に歩いた。莉子が落としたペンを拾ってあげたり、重そうな荷物を持っている時に「持つよ」と声をかけたり。悠真は、これまで経験したことのないような、胸の高鳴りを感じていた。それは、彼にとって初めての恋だった。
しかし、その想いは募るばかりで、どうすれば莉子に伝えればいいのか、悠真にはまだわからなかった。自分の気持ちを言葉にするのが苦手な悠真にとって、それは大きな壁だった。過去に、好きな人に素直になれず、後悔した経験がある。あの時と同じ轍を踏みたくない。でも、どうすればいいのか。
「悠真、最近なんか顔色いいな」
放課後、いつものように友人である田中健太に声をかけられた。二人は幼馴染で、気兼ねなく話せる仲だった。
「え、そうか?」 「うん。なんか、楽しそうだもん。彼女でもできたのか?」
健太の言葉に、悠真の心臓がドクリと跳ねた。彼女、という言葉に、莉子の顔が浮かぶ。
「いや、そんなんじゃないよ」 「ふーん?まあ、いいけどさ。でも、なんかあったら相談しろよな。俺、恋愛マスターだから」
健太はニカッと笑った。その言葉に、悠真は少しだけ救われた気がした。恋愛マスター、か。自分には、そんな自信は全くなかったけれど。
「ありがとう、健太」 「おう。で、そろそろ飯でも行くか?俺、腹減ってんだわ」
二人は部活の片付けを終え、いつもの定食屋へと向かった。
「でもさ、悠真。もし、本当に好きな人ができたなら、ちゃんと伝えろよ。後で後悔するより、今、動いた方が絶対いいって」
店に入り、席に着いてからも、健太は真剣な表情で悠真に言った。その言葉は、悠真の心にすとんと落ちた。健太は、悠真の不器用さを、そして過去の経験を、誰よりも理解してくれているのかもしれない。
「わかってる…けど、どう伝えればいいのか、わからなくて」 「まあ、最初は挨拶とか、ちょっとした手伝いとか、そういうのでいいんじゃない?いきなり告白とか、ハードル高いだろ。まずは、存在を意識してもらうのが大事だ」 「存在を意識してもらう…」
悠真は、健太の言葉を反芻した。確かに、いきなり自分の気持ちをぶつけても、莉子を困らせてしまうだけかもしれない。まずは、もっと自然な形で、彼女との接点を持とう。
その日から、悠真は意識的に莉子との会話を増やした。学校での些細な出来事を話したり、彼女の好きな本や音楽について質問したり。莉子も、悠真の積極的なアプローチを、嬉しく思っているようだった。天然なところもある莉子だが、人の心の機微には敏感だ。悠真の不器用さの中に隠された、真剣な想いに、彼女も少しずつ気づき始めていた。
「佐倉くんって、優しいんだね」
ある日、悠真が莉子のために、雨で濡れないようにと傘を広げてあげた時、莉子はふわりと微笑んでそう言った。その言葉に、悠真の胸は温かいもので満たされた。自分の行動が、彼女に伝わっている。それだけで、悠真は幸せだった。
莉子もまた、悠真に惹かれ始めていた。明るく、周りを気遣うことができる彼女だが、過去の恋愛で傷ついた経験があり、新しい関係には慎重になっていた。でも、悠真の純粋で、まっすぐな気持ちに触れるうちに、少しずつ心を開いていくのを感じていた。
「伊藤さん、最近佐倉くんのこと、どう思ってる?」
ある放課後、莉子は親友である伊藤恵に、少し照れくさそうに尋ねた。恵は、莉子の良き相談相手であり、物事を冷静に判断できるしっかり者だった。
「佐倉くん?うーん、真面目で、優しい子だと思うわよ。莉子のこと、すごく大切に思ってるんじゃない?」 「そ、そうかな…」 「そうよ。莉子も、佐倉くんのこと、悪くないなって思ってるんでしょ?」
恵の言葉に、莉子は顔を赤らめた。確かに、悠真の不器用さの中に隠された優しさに、彼女は気づいていた。でも、それをどう受け止めて良いのか、まだ戸惑っていた。
「でも、私、ちゃんと彼の気持ちに応えられるかな…」 「焦る必要はないわよ。それに、佐倉くん、そういう不器用なところも、きっと莉子なら受け止めてくれると思うわ」
恵は、莉子の手を優しく握った。その言葉に、莉子は少しだけ安心した。
二人の関係が、順調に進んでいるかに見えた。しかし、運命というものは、時に皮肉な形で、二人の間に波乱を巻き起こす。
ある日、学校の廊下で、悠真は莉子と健太が話しているのを見かけた。普段はあまり親しくないはずの二人が、楽しそうに笑い合っている。その光景に、悠真の胸に、今まで感じたことのない、黒い感情が芽生えた。嫉妬だ。
「…健太と、楽しそうだな」
思わず、口にしてしまった。その声は、自分でも驚くほど冷たい響きだった。莉子と健太は、悠真の存在に気づき、こちらを見た。
「あ、佐倉くん」 「悠真」
莉子が声をかけてきたが、悠真は彼女の目を見ることができなかった。健太も、少し戸惑った顔をしている。
「俺、ちょっと、気分が悪くなっちゃったみたいだから、先に帰るよ」
そう言って、悠真は足早にその場を立ち去った。
「悠真、どうしたんだ…?」 「さっきの、佐倉くん、どうしたのかしら?」
残された莉子と健太は、顔を見合わせた。
その夜、悠真は眠れずにベッドの上で悶々としていた。なぜ、あんな態度をとってしまったのか。莉子を傷つけてしまったかもしれない。健太を、誤解させてしまったかもしれない。自分の感情をうまくコントロールできない自分が、情けなかった。
「俺、どうしてあんなこと言っちゃったんだろう…」
天井を見つめながら、悠真は呟いた。あの時、莉子の笑顔が、健太との楽しそうな会話が、まるで自分だけが置いてきぼりになっているような、そんな錯覚に陥ってしまったのだ。
翌日、学校へ行くと、莉子はどこか寂しそうな顔で悠真を見ていた。健太も、いつものように明るく振る舞おうとしているが、どこか元気がないように見えた。
悠真は、自分の行動が招いた誤解に、深く後悔していた。莉子に、そして健太に、自分の本当の気持ちを伝えなければ。このままでは、すべてが壊れてしまう。
「健太、話があるんだけど」
放課後、悠真は健太を呼び出した。
「なんだよ、悠真。昨日のこと、気にしてるのか?」 「うん…ごめん。俺、ちょっと、嫉妬しちゃったんだ。莉子のことが、好きだから」
悠真は、意を決して、自分の本心を告白した。健太は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつものようにニカッと笑った。
「なんだよ、そんなことか。まあ、お前らしいけどな」 「え?」 「俺は、悠真が莉子のこと、好きなのは知ってたよ。で、昨日のことだけど、あれは、ただ、莉子が困ってたから、助けてあげただけだ。別に、悠真を出し抜こうとか、そんなつもりは全くないから、安心しろ」
健太の言葉に、悠真は安堵した。
「ありがとう、健太。本当に、ごめん」 「いいってことよ。で、悠真。お前、本当に莉子のことが好きなら、ちゃんと伝えろよ。俺は、お前の味方だからな」
健太の力強い言葉に、悠真の心に、決意が固まった。もう、後悔はしたくない。自分の気持ちに、素直になろう。
「うん。ありがとう、健太。俺、ちゃんと、莉子に伝えるよ」
悠真は、莉子に会うために、彼女のクラスへと向かった。心臓は、緊張で激しく脈打っていた。
「莉子、ちょっといいかな?」
教室のドア越しに、悠真は莉子に声をかけた。莉子は、悠真に気づき、少し驚いた顔でこちらを見た。
「佐倉くん…」 「あのさ、話があるんだ」
悠真は、莉子を人気のない、校舎裏の隅へと誘った。風が、二人の間を吹き抜けていく。
「あの、昨日、俺、変な態度とっちゃって、ごめん」 「ううん、大丈夫だよ」
莉子は、俯きがちに答えた。
「いや、大丈夫じゃないんだ。俺、莉子のことが…」
悠真は、言葉に詰まった。どうしても、言葉が出てこない。過去の経験が、蘇る。あの時と同じように、言葉に詰まってしまう。
「…俺、昔から、自分の気持ちをうまく言えないんだ。だから、もしかしたら、伝わらないかもしれないけど…」
悠真は、必死に言葉を探した。
「でも、俺は、莉子のことが、本当に、本当に、好きなんだ」
その言葉は、震えていたけれど、まっすぐだった。莉子は、顔を上げ、悠真の目を見つめた。その瞳には、驚きと、そして、かすかな光が宿っていた。
「佐倉くん…」
莉子は、ゆっくりと口を開いた。
「私も…佐倉くんのこと、気になってた。佐倉くんの、不器用だけど、優しいところとか…」
その言葉に、悠真の心臓は、喜びで爆発しそうになった。
「だから…私も、佐倉くんのこと、好きだよ」
莉子の言葉は、あまりにも優しく、そして、温かかった。悠真は、その言葉を、何度も何度も反芻した。
「…本当?」 「うん、本当だよ」
莉子は、小さく頷いた。その笑顔は、まるで陽だまりのように、悠真の心を照らした。
風が、二人の髪を優しく撫でていく。校舎裏の、静かな時間。二人の心は、ゆっくりと、しかし確実に、重なり合っていった。それは、佐倉悠真にとって、一生忘れられない、心ときめく瞬間だった。