Chapter 3
初めての灯火
界の家で、澪音は初めて「居場所」というものを知る。温かい食事、静かな夜、そして何より、否定されない安心感。それは、これまで想像もできなかった安らぎだった。しかし、過去の闇はすぐそこまで迫っている。
雨音の邂逅から数日。澪音の世界は、静かに、しかし確実に色を変え始めていた。界の古びたアパートの一室。そこは、澪音がこれまで知っていたどの場所とも違っていた。壁には手書きの絵や写真が飾られ、古書が積まれた本棚、そして窓辺には小さな鉢植えのハーブが、柔らかい光を浴びていた。その全てが、まるで住む人の温かさを映し出しているかのようだった。
「今日は、何が食べたい?」
界の問いかけに、澪音は虚を突かれたような顔をした。これまで「食べたいもの」を尋ねられたことなど、一度もなかったからだ。いつも与えられるものを、ただ黙って受け取るだけ。それが当たり前だった。
「え、あの…」
言葉に詰まる澪音に、界は優しく微笑んだ。
「無理に考えなくていい。冷蔵庫にあるもので、簡単なものを作るよ。何かアレルギーとか、苦手なものがあれば教えてほしいんだけど」
「…大丈夫、です。何でも」
「そっか。じゃあ、簡単なパスタにしようかな。冷蔵庫にベーコンとキノコがあったはずだし」
界はそう言って、キッチンへと向かった。その手つきは慣れたもので、軽やかな包丁の音と、炒め物の香ばしい匂いが、部屋に満ちていく。澪音は、その様子をただぼんやりと眺めていた。
食卓に並べられたのは、シンプルなペペロンチーノだった。しかし、澪音にとっては、それはまるでご馳走のように見えた。熱々で、ニンニクと唐辛子の香りが食欲をそそる。
「いただきます」
界の声に促され、澪音も小さな声で言った。フォークを手に取る。熱い。けれど、その熱さすら心地よかった。口に運ぶ。
「…美味しい」
自然と、言葉が漏れた。
「そう? よかった。ベーコンとキノコの旨味が出てるかな」
界は満足そうに頷いた。澪音は、次々と口に運んだ。味覚が、これまで眠っていたかのように、鮮やかに目覚めていく。空腹を満たすだけでなく、心が温まっていくような感覚。それは、初めての体験だった。
食事中、界は澪音に無理に話しかけることはなかった。ただ、時折、今日あったことや、昔飼っていた猫の話などを、ぽつりぽつりと聞かせてくれた。澪音は、相槌を打ちながら、その言葉に耳を傾けた。否定されることも、責められることもない。ただ、そこにいるだけでいい。そんな空間が、どれほど心地よいか。
食後、二人はリビングで静かに過ごした。界は本を読み、澪音は窓の外を眺めていた。外はすっかり暗くなり、街の明かりが瞬き始めていた。
「そろそろ、休むかい?」
界の声に、澪音は顔を上げた。
「はい」
「明日の朝食も、簡単なものだけど作るよ。ゆっくり休んで」
界はそう言って、澪音に部屋の場所を教えた。それは、界の書斎を兼ねた小さな部屋だった。ベッドはふかふかで、清潔なシーツの匂いがした。
一人になった部屋で、澪音はベッドに横になった。天井を見上げる。静かだ。これまで、眠りにつく時、いつも耳を澄ませていた。物音一つで飛び起きるような、張り詰めた日々。けれど、ここでは、そんな必要はなかった。
界の気配が、すぐ近くにある。それだけで、不思議な安心感が胸を満たした。目を閉じる。
瞼の裏に、ぼんやりと、あの日の光景が浮かんだ。暗闇の中、響く怒鳴り声。痛む体。そして、冷たい視線。
(…もう、大丈夫だ)
自分に言い聞かせる。界が、この部屋が、自分を護ってくれる。そう信じたかった。
翌朝、澪音は自然と目を覚ました。朝日が部屋に差し込んでいる。界の作った朝食は、焼きたてのパンと、温かいスープ、そしてフルーツだった。
「おはよう」
界の笑顔に、澪音は小さく「おはようございます」と返した。
「よく眠れたかい?」
「はい。ぐっすり」
「それはよかった」
界は、澪音の顔を優しく見つめた。その瞳には、澱んだものが一切なかった。ただ、温かな光が宿っているだけ。
「澪音」
「はい」
「君は、ここにいていいんだよ。何も心配いらない」
その言葉は、澪音の心の奥底に、静かに、しかし確かに響いた。初めて、誰かに「ここにいていい」と言われた気がした。
界との共同生活が始まった。それは、澪音にとって、まるで別世界だった。朝は界が作る朝食。昼は、界が仕事に出かける時間に合わせて、澪音は一人で部屋にいた。界が帰ってくると、夕食を作り、二人で食卓を囲む。休日は、近所の公園を散歩したり、界が借りてきた古い映画を観たりした。
界は、澪音に多くのことを尋ねることはなかった。ただ、澪音が話したい時には、じっと耳を傾けてくれた。澪音が言葉に詰まっても、焦らせることも、急かすこともなかった。
「あの…」
ある日、澪音は意を決して、界に尋ねた。
「どうして、僕みたいな人間を、拾ってくれたんですか?」
界は、手に持っていた本から顔を上げた。そして、澪音の目をまっすぐに見つめた。
「拾った、なんて思ってないよ。君は、君だから」
「でも、僕は…」
「大丈夫。君は、何も悪くない」
界の言葉は、まるで魔法のようだった。澪音の心に積もっていた、重い石が、少しずつ崩れていくような感覚。
「君が、どんな過去を背負っていても、僕は君を否定しない。君が、君らしくいられる場所を、僕は与えたいんだ」
「場所…」
「そう。居場所だよ」
界は、そう言って、澪音の頭を優しく撫でた。その手は、温かかった。
「でも、君が過去と向き合う覚悟ができた時、僕は君に、君の過去について、話を聞かせてほしいと思う。もちろん、君が話したくなければ、それでもいい。ただ、君が一人で抱え込まないでほしいんだ」
「…はい」
澪音は、震える声で答えた。界の優しさが、時に怖かった。こんなにも温かいものに触れて、もし、それを失ってしまったら。もし、界に幻滅されてしまったら。
そんな不安が、胸をよぎる。
ある夜、澪音は悪夢にうなされた。暗い部屋で、父に殴られる。痛い。怖い。助けて。
「…っ!」
澪音は、息を荒くして目を覚ました。冷や汗が、額に滲んでいる。部屋は、暗闇に包まれていた。界の部屋は、すぐ隣にある。けれど、そこへ行く勇気が出なかった。
(…大丈夫。もう、大丈夫だ)
自分に言い聞かせる。けれど、心臓の鼓動は速いままだった。
その時、ドアが静かに開いた。
「澪音?」
界の声が、暗闇に響いた。
「…界さん」
「大丈夫か?」
界は、澪音のベッドの傍らに座った。その声は、いつも通り穏やかだった。
「…夢、見ました」
「そうか。辛かったな」
界は、澪音の背中を優しく撫でた。その温かさが、澪音の震えを少しずつ鎮めていく。
「僕…怖かったんです」
「うん」
「一人じゃ、だめなんです」
「一人じゃ、なくてもいいんだよ」
界の言葉に、澪音は顔を上げた。界の顔は、暗闇の中でも、優しく微笑んでいるように見えた。
「君は、一人じゃない」
その言葉を、澪音は、初めて心から信じることができた。
界の家で過ごす日々は、穏やかだった。しかし、澪音の心の中には、まだ消えない影が潜んでいた。時折、過去の断片的な記憶がフラッシュバックし、澪音を恐怖に陥れた。
「父さんが…」
ある日、澪音は、ふと、口走った。
「父さんが…僕に、お前は誰にも愛されないって、言いました」
それは、澪音が自分から、初めて過去について口にした言葉だった。界は、何も言わず、ただ静かに澪音の言葉を聞いていた。
「僕…本当に、誰にも愛されないんだって、思ってました。だから、ずっと、どこにも居場所なんてないって」
「そんなことはない」
界は、澪音の手をそっと握った。
「君は、愛されるべき人間だ。そして、君には、居場所がある」
「僕に…?」
「そう。僕の隣に」
界の言葉は、澪音の心を揺さぶった。界の隣。それは、澪音がずっと求めていた、温かい場所だった。
しかし、同時に、不安も募る。界は、なぜ自分にここまで優しくしてくれるのだろうか。自分は、界にとって、一体何なのだろうか。
「界さん…」
「なんだい?」
「…僕、界さんのこと…」
言葉が、喉に詰まる。恋愛感情に近い、特別な感情。それを、界に伝える勇気は、まだなかった。
「…なんでも、ないです」
「そうか」
界は、澪音の言葉を、そのまま受け止めた。
ある日、界は、澪音に一枚の写真を見せた。それは、若い頃の界と、見知らぬ子供が写った写真だった。
「この子は…?」
「僕の…妹だよ」
界の声は、少しだけ震えていた。
「昔、事故で…」
界は、それ以上、言葉を続けなかった。しかし、澪音は、界の瞳の奥に、深い悲しみを見た。
(妹…?)
その時、澪音の頭の中に、ある記憶が蘇った。暗闇の中、泣き叫ぶ小さな女の子の声。そして、冷たい声で、それを叱りつける男の声。
(…まさか)
澪音は、ぞくりとした悪寒を感じた。界の妹。そして、自分の父。二人の間に、何か繋がりがあるのだろうか。
「界さん…その妹さんって…」
「どうしたんだい?」
「…その…父のこと、覚えてますか?」
「君の父さんのことか?」
界は、怪訝な顔をした。
「ええ。僕の父…」
「君の父さんは、僕が、昔、世話になっていた男の知り合いだったんだ」
「…!?」
界の言葉に、澪音は息を呑んだ。知り合い? そんなはずはない。父は、誰とも親しくしていなかったはずだ。
「君が、幼い頃、一度だけ、会ったことがあるはずだよ」
「…僕、そんな記憶…」
「君は、まだ小さかったからな。でも、君が、僕の妹のことを、とても気に入っていたのは、覚えている」
(妹…? 僕が、妹のことを…?)
澪音の記憶は、断片的だった。けれど、界の言葉に、何かが、繋がり始めた。
父が、界の妹を、虐待していたのではないか。そして、界は、そのことを知っていて、自分を、父の元から救い出してくれたのではないか。
「…界さん、もしかして…」
「…今は、いいだろう。君が、話せる時が来たら、話そう」
界は、そう言って、澪音の言葉を遮った。その瞳には、先ほどの悲しみとは違う、強い決意が宿っていた。
その夜、澪音は、眠れなかった。界の言葉が、頭の中で反芻される。父と、界の妹。そして、自分。
(僕は、一体、何者なんだろう)
自分が、誰なのか、分からなくなる。けれど、同時に、ある感情が、胸に灯った。それは、怒りでも、悲しみでもなく、もっと強い、何かだった。
(父を、許せない)
(そして…界さんを、守りたい)
これまで、ただ怯えて、耐えることしかできなかった。けれど、今は違う。界という、温かい光を見つけた。その光を、失いたくない。
澪音は、ベッドから身を起こした。窓の外は、まだ暗い。
(僕は、もう、一人じゃない)
(界さんが、いる)
(だから、大丈夫だ)
澪音は、静かに、しかし力強く、そう思った。過去の闇は、まだそこにある。けれど、もう、怯えるだけではない。
自分自身を受け入れ、そして、界と共に、未来へと歩み出す。その決意が、澪音の胸に、静かに、しかし確かに、灯火のように、灯り始めていた。