Chapter 1
色褪せた笑顔
主人公・如月綾音は、小学生の頃のある出来事がきっかけで本当の笑顔を失った。周囲には明るく振る舞うが、心には深い孤独を抱え、空を見上げる日々を送っていた。高校入学を控え、彼女の心は期待と不安で揺れ動く。
空は、どこまでも青く澄み渡っていた。まるで、迷子の鳥が迷い込んだのかと思うほど、どこまでも高く、どこまでも広い。綾音は、いつものように、その空を見上げていた。小学校の校庭の片隅、西陽が斜めに差し込む場所。そこが、綾音にとって一番落ち着く場所だった。
「ねえ、綾音。また空見てるの?」
背後から聞こえてきた声に、綾音はゆっくりと振り返った。クラスメイトの詩織が、屈託のない笑顔で立っていた。詩織は、いつも元気で、クラスの中心にいるような女の子だ。綾音とは、どこか違う世界に生きているような気がするけれど、それでも、詩織の明るさに、綾音は救われている部分もあった。
「うん。なんか、今日の空、綺麗だなって思って」
綾音は、無理に笑顔を作った。本当は、心の中はどんよりと曇っていた。空が綺麗だなんて、本当は全然思っていなかった。ただ、詩織に何か言わなければ、という義務感から出た言葉だった。
「そっか。でも、私、空より綾音の方が綺麗だと思うけどな」
詩織は、そう言って、綾音の顔を覗き込んだ。その言葉に、綾音は胸が締め付けられるような思いがした。綺麗だなんて、そんなこと、もうずっと、誰にも言われたことがない。いや、言われたとしても、それを素直に受け取れるだけの心が、今の綾音には残っていなかった。
「もう、詩織ったら、からかわないでよ」
綾音は、わざとらしく顔を赤らめた。詩織は、そんな綾音の反応を見て、楽しそうに笑った。その笑い声が、綾音の耳には、遠くで響く鐘の音のように聞こえた。綺麗だけど、どこか寂しい音。
「からかってなんか、ないって!だって、本当のことだもん。綾音、可愛いんだから」
「……ありがとう」
綾音は、小さく呟いた。ありがとう、という言葉は、喉の奥でつっかえて、うまく声にならない。本当の気持ちを伝えるには、あまりにも、綾音の心は錆びついてしまっていた。
小学生の頃、綾音は、もっと笑っていた。もっと、友達と遊んでいた。あの頃は、空を見上げるなんて、考えもしなかった。ただ、目の前の世界を、全力で駆け抜けていた。でも、あの出来事が起こってから、すべてが変わってしまった。
あの日のことを思い出すと、今でも、息が苦しくなる。あの、鮮やかな色彩に満ちていた世界が、一瞬にして色褪せてしまった。そして、綾音の中から、何かが、すっと消えてしまった。それが、本当の笑顔だった。
「ほら、もうすぐ終業式だよ?教室に戻らないと、先生に怒られちゃう」
詩織の声に、綾音は我に返った。そうだ、もうすぐ、高校の入学式だ。新しい生活が、始まる。期待と、それと同じくらい、強い不安が、綾音の胸をよぎった。
「うん、わかった」
綾音は、空から視線を外し、詩織に促されるまま、教室へと歩き出した。教室のドアを開けると、そこには、いつもの賑やかな空気が流れていた。クラスメイトたちは、卒業の寂しさや、新しい学校への期待を、言葉にしていた。
綾音は、その輪には加わらず、自分の席へと静かに向かった。窓際の席。そこから見える景色は、いつも、綾音の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
「如月さん」
ふと、背後から声がかかった。振り返ると、クラスメイトの西園寺蓮が、綾音のことをじっと見つめていた。蓮は、クラスの中でも、あまり目立たない存在だった。いつも静かで、物静かな青年。でも、その瞳の奥には、何か深いものを秘めているような、そんな印象があった。
「…何か、用?」
綾音は、少し警戒しながら尋ねた。蓮が、自分に話しかけてくるなんて、珍しいことだった。
「いえ、別に。ただ、如月さんが、そちらの席に座るなら、私も、その近くに座ろうかと思って」
蓮は、そう言って、綾音の隣の席を指差した。綾音は、少し戸惑った。蓮が、自分の隣に座りたいなんて、どうしてだろう。
「え…でも、その席、誰か決まってるんじゃない?」
「大丈夫です。誰も、この席に座るとは言っていなかったので」
蓮は、そう言って、優しく微笑んだ。その微笑みは、どこか、綾音の心を温かくするような、不思議な力を持っていた。
「そ、そう…」
綾音は、それ以上何も言えず、自分の席に座った。蓮も、綾音の隣に、静かに腰を下ろした。教室には、まだ、卒業式の歌が流れている。
「如月さん、卒業おめでとう」
蓮は、突然、そう言った。
「…ありがとう。西園寺さんも」
綾音は、小さく返した。卒業。それは、一つの終わりであり、同時に、一つの始まりでもある。綾音にとって、この卒業は、過去と決別し、新しい自分になるための、大きな節目になるはずだった。
「新しい高校でも、頑張ってください」
「うん。西園寺さんも、ね」
綾音は、蓮の言葉に、ほんの少しだけ、希望を感じた。もしかしたら、この新しい環境で、自分も、変われるかもしれない。
「あの…」
蓮が、何かを言いかけた。綾音は、続きを促すように、蓮を見た。
「如月さん、ずっと、空を見上げていますよね」
蓮の言葉に、綾音は、ドキッとした。なぜ、蓮は、そんなことを知っているのだろう。詩織なら、まだわかる。でも、蓮が、自分のことなんて、気にかけているとは思っていなかった。
「…え?」
「いえ、別に、何か意味があるとか、そういうことではないんです。ただ、ふと、気になって」
蓮は、そう言って、視線を窓の外へと向けた。そこには、綾音がいつも見上げていた、あの青い空が広がっていた。
「…別に、深い意味なんて、ないよ」
綾音は、素っ気なく答えた。本当は、深い意味なんて、ないのかもしれない。ただ、あの空を見上げていると、少しだけ、心が軽くなるような気がするだけだ。
「そうですか」
蓮は、それ以上何も聞かなかった。ただ、静かに、綾音の隣に座っていた。
卒業式が終わり、教室には、別れを惜しむ声と、新しい旅立ちへの期待の声が満ち溢れていた。綾音は、クラスメイトたちと、当たり障りのない言葉を交わし、足早に学校を後にした。
「綾音!」
校門の前で、幼馴染の佐伯悠真が、手を振っていた。悠真は、綾音とは、生まれたときからの付き合いだ。いつも明るく、綾音のことを気遣ってくれる、大切な友達。
「悠真、お待たせ」
「いやー、綾音こそ、遅いよ。もう、みんな、待ちくたびれてるって!」
悠真は、そう言って、綾音の肩を軽く叩いた。その感触に、綾音は、少しだけ安心した。
「ごめんごめん。ちょっと、空が綺麗だったから、つい」
「はは、相変わらずだね、綾音は!まあ、新しい高校でも、空ばっかり見てないで、ちゃんと友達作れよ?」
悠真は、そう言って、綾音の頭をくしゃくしゃと撫でた。その優しさに、綾音の胸が、ほんの少し、温かくなった。
「うん、わかってる」
綾音は、精一杯の笑顔を作った。悠真には、本当の自分を見せられない。本当の自分なんて、もう、どこかに置いてきてしまったのかもしれない。
「よし、じゃあ、みんなで、お祝いにケーキでも食べに行こうぜ!」
「いいね!行こう行こう!」
クラスメイトたちが、次々と賛同する。綾音も、その流れに乗り、悠真と共に、賑やかな声に紛れて歩き出した。
新しい制服に袖を通す日。高校の校門をくぐる瞬間、綾音の心臓は、期待と不安で、激しく高鳴った。新しい環境。新しい出会い。もしかしたら、この場所で、自分は、変われるのかもしれない。
教室に入ると、そこには、たくさんの新しい顔があった。皆、初対面のはずなのに、どこか、親しげに話している。綾音は、いつものように、窓際の席に座った。
「如月綾音さん、ですよね?」
ふと、隣から声がかかった。振り返ると、そこには、見慣れた顔があった。
「…西園寺さん?」
「はい。同じクラスになりました。改めて、よろしくお願いします」
蓮は、そう言って、綾音に軽く頭を下げた。綾音は、少し驚いた。まさか、蓮と、同じクラスになるとは思ってもいなかった。
「こちらこそ、よろしくね」
綾音は、控えめに微笑んだ。蓮の隣に座るのが、少しだけ、心強く感じた。
授業が始まり、先生の話を聞きながら、綾音は、窓の外に目をやった。青い空。白い雲。いつものように、空は、綾音の心を静かに満たしていく。
「如月さん」
蓮が、小声で綾音を呼んだ。
「なに?」
「あの…空、綺麗ですか?」
蓮の問いに、綾音は、一瞬、言葉を失った。なぜ、蓮は、そんなことを聞くのだろう。
「…うん。綺麗だよ」
綾音は、正直に答えた。蓮は、その言葉を聞いて、満足そうに頷いた。
「そうですか。私も、そう思います」
蓮は、そう言って、窓の外に目をやった。その瞳には、綾音と同じように、空の青さが映っていた。
その日以来、蓮は、綾音の隣に座ることが多くなった。授業中、時折、蓮が綾音に話しかけてくる。それは、授業の内容に関することだったり、他愛のない世間話だったりした。
「如月さん、今日の放課後、図書館に行きませんか?」
ある日の放課後、蓮が、綾音を誘ってきた。
「図書館?どうして?」
「少し、調べたいことがあるんです」
蓮は、そう言って、意味ありげな表情をした。
「…わかった。行ってみる」
綾音は、蓮の誘いに応じた。蓮といると、不思議と、心が落ち着く。そして、蓮は、綾音の心の奥底にある、言葉にならない気持ちに、そっと寄り添ってくれるような気がした。
図書館で、二人は、それぞれの本を読んでいた。綾音は、小説を読んでいた。登場人物たちの生き様に、自分を重ね合わせ、共感したり、時には、涙したりした。
「如月さん、その本、面白いですか?」
蓮が、綾音の隣に座り、尋ねてきた。
「うん、とっても。主人公が、すごく強いんだ」
「そうですか。私も、いつか、そんな風に、強く生きてみたいものです」
蓮の言葉に、綾音は、少しだけ、胸を突かれた。蓮もまた、何か、抱えているものがあるのだろうか。
「…蓮くんも、何か、辛いこと、あった?」
思わず、綾音は、そんな言葉を口にしていた。蓮は、その言葉に、少し驚いた表情を見せたが、すぐに、穏やかな笑みを浮かべた。
「辛いこと、ですか。まあ、誰にでも、そういうことは、あるのでしょうね」
蓮は、そう言って、綾音の目をじっと見つめた。その瞳は、まるで、綾音の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
「如月さんも、きっと、たくさん、抱えていることがあるのでしょう。私には、わかります」
蓮の言葉に、綾音は、息を呑んだ。誰にも、本当の自分を見せられずに生きてきた。でも、蓮は、それを、見抜いていた。
「…どうして、わかるの?」
綾音の声は、震えていた。
「…私も、似たような経験をしたことがあるから、かもしれません」
蓮は、そう言って、遠い目をした。その表情は、どこか、綾音の過去の風景と重なるような気がした。
その日、綾音は、蓮という、自分を理解してくれる人間に出会えたことを、心から嬉しく思った。閉ざされていた心が、少しだけ、開かれたような気がした。
窓の外では、夕暮れの空が、茜色に染まっていた。まるで、綾音の心のように、少しずつ、色づき始めている。
いつか、この茜色の空の下で、本当の笑顔を、取り戻せる日が来るのだろうか。綾音は、そっと、空を見上げた。その隣には、蓮が、静かに寄り添っていた。